2019年3月2日の朝の祈り

朝の祈り

私たちの学校は、三重県唯一の女子校です。女子校生のみなさんに、聖書の「10人のおとめたち」に描かれている
「賢い乙女5人」と「愚かな乙女5人」のお話をします。聖書は、マタイ25章に次のように書かれています。

「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出ていく。そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。真夜中に『花婿だ。迎えにでなさい』と叫ぶ声がした。そこで、おとめたちは皆起きてそれぞれのともし火を整えた。
 愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。しかし、主人は『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」

 さて、このたとえ話に登場する「夜中に到着する花婿」を聖書学的には終末が訪れる時の救い主と解釈するのですが「死と同時に始まる神との決定的な出会い」とも考えることができます。最後の「目を覚ましていなさい」というのは、物理的に目を開けていることではありません。このお話しからは賢い乙女も愚かな乙女も眠ってしまっているのですから。これは心の目を開けることを意味しています。
 賢い乙女たちが、愚かな乙女たちに油を譲らなかったといって、「薄情だ」と批判することも、また愚かな乙女たちを拒絶する花婿を「冷酷」だと判断することも、たとえ話の真意をゆがめます。賢い乙女たちと花婿の冷たさ、それは、神の前では弁解することも、その失敗の責任を他者に転嫁することも許されない。人生の責任は、私たち一人一人が追わなければならないという厳粛な事実を強調するものです。
 人生の最後を喜びにあふれたものにするためにも、今の一瞬一瞬を誠実に、神様に心の目を向けるものとして生きることが求められています。