2019年7月7日の朝の祈り

朝の祈り

今朝は、建学の精神「愛と奉仕の精神」について、お話をします。マタイによる福音書25章34 節~40節を読みます。
そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。
お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。 いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。 いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
神さまは何を基準として私たちの一生をはかられるのでしょうか。何が神さまの前で価値があるのでしょうか。みなさんは、どのように考えますか? 成績が良いことでしょうか。お金をどれほど持っているかでしょうか。社会的貢献度でしょうか。私たちの社会は、才能や学歴や社会的貢献度によって、人をはかってしまいがちです。
さきほど読みました、マタイによる福音書では、神さまの前で価値があるのは、「愛」だけであるとイエス・キリストは言っています。つまり、小さな愛の行為を誇りに思うこともせず、自分があたりまえと思ってやった行為に、神さまは価値があると教えられているような気がします。この学校の中でいうと、ドアガールをしながら教室に入ってくる方々を気持ちよく通っていただくことやお花を教室に飾ってみなさんの気持ちを明るくすることなどです。家族のことでいうと、みなさんのお世話をしてくださる何気ないご両親の配慮、年老いた方々への介護をつくしてくださる方、これらは、あたりまえのことであっても、生きた愛がなければできないことです。神さまは、このような行為に対して価値があるとおっしゃっているのだと思います。
イエス様は、「この最も小さな者にしてくれたことは、このわたしにもしてくれたことである」といいます。渇く者、飢える者、貧しい者とイエス・キリストは一体となっているのです。貧しく苦しみの中にある者はイエス・キリストなのです。私たちの苦しみや悲しみ、苦労を背負うためにこの世に生まれてくださったのです。そこまで深く私たち一人ひとりと一つになられているのです。人間の悲しみ、苦しみ、絶望は、まさにイエス様の姿なのです。
日常のささいな小さなことがらの中に、生きた愛の行為をおこなっていきましょう。
この学校で学ぶ建学の精神「愛と奉仕の精神」とは、生きた小さな愛の行いなのです。
では、今朝もイエス様が教えて下さった「主の祈り」を唱えましょう。